煎茶のティーバッグに熱湯を注ぐ。約二分置いてからティーバッグを上下させると、茶葉の成分が滲み出て即席茶が完成する。
これは公然の事実だ。秘密というのはその先にある。
二番煎じはまずいと世に言う。ティーバッグという時点で既に品位に劣るお茶は、二番煎じだともっとまずくなる。しかし、一回でティーバッグを捨てるほどのブルジョワジーがティーバッグで煎茶を飲んだりなどしない。勿体無いからしかたなくもう一度ポットからお湯を注ぐ。
私が居た病院ではお湯が常に使えるようになっていて、各自インスタントコーヒーなり、アップルティーなりを飲むわけだ。私が煎茶のティーバッグを選択する理由は、ちゃんとある。
三番煎じが出来てしまうのだ。三番煎じともなると、茶の渋みはほとんど出ず、甘みがカップに広がる。四番目になるとその傾向は益々増大し、甘みは全く渋みを圧倒する。
このようにインスタントコーヒーなどには真似できないような技が、煎茶のティーバッグにあるのである。
さて、私は自分のベッドに戻って、五番煎じの茶を飲んだ。もう茶と呼べるような味の液体ではない。どこか浮遊感のある甘みが、舌をくすぐる。便秘対策のために、水分は多くとらなければならない。私は談話室に行って、六番目のお湯を注いだ。私は手元を見ていなかった。それは決定的な過ちであった。
部屋に戻ってカップを見ると、ティーバッグがなかった。茶だけがそこにあった。おかしい。談話室に戻ってティーバッグを探したら、それはあったのだが、なんというか、天井に張り付いていた。私は椅子の上に立ってティーバッグを剥がした。ティーバッグは風船のように浮力を持っていた。私はティーバッグを匙でカップに突っ込み、六度目の茶を飲んだ。
問題はもう分かっている。甘みの成分が浮力に変わって、ティーバッグが空を飛ぶ。七度目の茶でも同じことだ。私は意を決して談話室に入りポットを前にした。ティーバッグは飲み干されてカップに張り付いている。そこへじょぼじょぼと熱湯を注ぐ。と、徐にティーバッグが浮き上がり始めた。私はそれを押さえ込むべく両手でカップに蓋をした。が、浮き上がるカップを押さえきれずに腕の角度がどんどん逆方向に垂直になっていく。私はカップを押さえ込んでいたはずが、もうすでにカップにぶら下がっている。そして手の甲でもって天井に張り付いた。
私に出来る事は二つある。それはカップの中身を飲んでしまって、浮力を消失せしめることである。もうひとつは、カップと天井に挟まれた手を引っこ抜いて、下に飛び降りる事である。いや、考えてみれば一つだ。手を引っこ抜かなければ茶が飲めない。蓋をしているのだから。どうも混乱している。
私は踏ん張るべき地面を失っていて、力を全く出せずにいる。これを解決するには天井に足をつけるしかないが、これは体操選手で無いと無理な相談だ。仕方がないから、茶がこぼれるのは覚悟で体を揺する事にした。
が、これは手首を大変に傷める結果に終わった。痛い。手首を軸に全体重が振れるのだから当然だ。
「どうしたの?」
私は茶に夢中になっていて、周りを見ていなかった。私の行動が看護婦の目にどう映るかは、想像しなくても分かる。
「あの、降りたいんで、足引っ張ってください。」
こう?と看護婦は足首を持って引いた。ほんのりと。もっと強くていいです、そういったら今度は看護婦も本気になって、膝のあたりを抱いて体重をかけた。猛烈な痛みと共にカップから手が抜け、私は墜落した。ポットが机から落ちて熱湯があたりにこぼれた。
カップは、と天井を見ると、ごく小さな穴が開いているだけだった。カップは実際には床に転がっていた。ティーバッグはなかった。
私の説は、ティーバッグの甘み成分が浮力に変わったというものだが、看護婦はそれを否定して、天井裏から誰かがティーバッグをピアノ線で引っ張っていたというのだ。いったいどちらが現実的なのだろう。